ローカルフリーランス日記

北九州地方に住むフリーランス。話を聴く人。イベント作り。創業機運醸成、防災、街づくり、引きこもり支援、博物館、フードイベント、句会、古代史研究会など。昔のことは→ https://works.toiroha.jp/500

「塾」という言葉について考える 

以前、学習塾を運営していました。このブログを書き始めた頃は、まだ実際に教えていました。昨年までは、北九州で「創生塾」という創業者向けの講座も運営していました。しかし、私は「塾」とは何かについて何もわかっていませんでした。

 

師から問われる「塾」の意味

文字の師匠に初めてご挨拶した翌日の朝9時、寝ぼけ眼の私に電話がかかってきた。

師曰く「中川君は塾をやってきたそうだね。では塾とは何かわかるか?」「いえ、わかりません。」
師「塾という文字の中に“土”という文字があるだろう。“土”とは何かね」「時間をください、考えます。」

ご挨拶の御礼も兼ねて手紙で返事を出すことにした。しかし私は字が苦手であり、達筆な師匠に自分の字を見せるのを大変恥ずかしく思った。ただ、悩んでいても字は上手くならない。82歳の方にメールでお送りするのも失礼にあたるだろう。書道を習って、上手くなっていく過程を見せるしかない。今は、今の自分でできる範囲で書くしかない。そう考え直し、便箋と封筒を買い、以下のような文章を書いた。便箋を選んでいる時には心が躍った。

 

書いた返事

先日はありがとうございました。
知らないことばかりで圧倒されるばかりでした。
深い学びをありがとうございます。

後日お電話いただいた「塾」とその「土」について考えました。
調べたところ、「土」とは神様に祈るための盛り土だとありました。土が盛られているということは、誰かが埋められていると想像しました。塾という言葉には「熟」という文字とも似ています。
そう考えますと、塾という言葉に含まれていることは、土が盛られた下で熟成するのは私自身の死体であるように思います。私自身が熟し、肥料となり、より良い土ができ、よい作物が育っていく。その土台となるものと想像します。
しかし、二宮尊徳先生の話をいただいたように、一度耕したところで、一度肥料を混ぜたところで土地が完成するわけではないと考えます。私一人が肥料になったところで小さなものです。今ある土地は、何度も耕し続けていただいた先輩方の努力が地層のように蓄積しています。

私が何をすべきかと言うと、先輩方の残した事柄について、対話を続けることによって学びを深め、最後には自らを土になるものとして扱うことが大切だと思い当たりました。まだまだ浅い考えではありますが、今、私が教えていただいたことをご報告させていただきました。
ぜひ、またお会いして教えていただけますようお願いいたします。それでは失礼いたします。

 

全く理解したとは言えないが、続けていくことは大切だろう

思い出しながらここに書いているので、正確ではないしもっと長く思いの丈を綴ったようにも思うが、概ねこの内容だ。

後日、師のところに別件で伺った際、内容については特に触れられなかった。「良い文章を書いている。良い文字を書いている。」というお褒めの言葉と「まずは“様”という字を書けるようになろう。」というアドバイスをいただいた。内容については、まだまだ物足りないということだろう。

自分が死んだ後、自分が育てた土がどうなるかについて考えるのは、言ってみればゴールの話だ。そのゴールに至るまでの過程はもっと長く、途中の道のりがあるはずだ。この続きは、もう一度考え、書いていくことにしよう。

ひとつの言葉だけでも深い意味を持っている。言葉について考えることは終わりが無い。