ローカルフリーランス日記

北九州地方に住むフリーランス。話を聴く人。イベント作り。創業機運醸成、防災、街づくり、引きこもり支援、博物館、フードイベント、句会、古代史研究会など。昔のことは→ https://works.toiroha.jp/500

近況2023

文章の仕事依頼が複数あるにもかかわらず、文章を書くモチベーションが一切湧かないし、アイデアもでない。バタバタした生活の中では、締め切りの無い行動はできない。だが、そうも言ってられないので、日記のようなものからリハビリしていくことにする。書いていくことで、リズム感が掴めればと思う。

このブログは独立する前に、毎日更新200記事×1000文字以上を実践することで、どのような効果があるかを試したものだ。いちおう、狙い通り「心理カウンセラー ブログ」という単語で検索したとき(羽田空港にある100円とかで使えるパソコンで検索した)に、検索順位が2位だったので満足して更新をやめてしまった。そのときの一位は心屋さんだった。

このブログの文章たちが、私をフリーランスにしたし、今の自分を作っている基礎ともいえるだろうとも思っている。たまには更新しないとな、と思いつつも中々できないでいた。

 

そうそう。地元ローカルメディアのエッセイコンテストに応募して入選して1万円もらえることになった。これは、2時間くらいで書けたし、個人的にも気に入っている文章だ。読んでもらえると嬉しい。

 

kitaq.style

この記事のあと、文学館にある三浦梅園のステンドグラスの下で講演をするという機会に恵まれた。とても嬉しい写真を撮っていただいたので、その写真を喜びの声とともにオープンしたいが、タイミングを失ったままだ。

 

近況としは、施設管理の仕事をしながら、家具屋さんの広報をお手伝いしたり、創業支援や防災などの取り組みも続いていたり、大学や高校、最近は中学などでも授業をしたりしている。近隣の施設に講師として呼ばれたり、行政にSNSの講師として呼ばれたり、地元クリエイターたちが作る新しい会社にほんのり関わったり、地元シンクタンクの理事になったり、地元文化を事業にする団体にアドバイザーとして関わったりという感じ。役職や仕事は増えたが貧乏なままではある。

とはいえ、褒めてほしい人に出会えて褒めてもらえるようになったし、やるべきことも明確にはなったので、ここの文章を書いていたころに比べると落ち着いていると言えば落ち着いているのかもしれない。年をとっただけかもしれないけれども。

 

年を取ったなりに、視野も少しは広がっただろうし、視座も上げ下げできるようになった気もする。

これから書かなきゃいけない文章は、創業支援の記事、地元観光の意義、地元グルメ、観光×写真の小倉と唐津、北九州の成り立ちと工業群、くらいかな。個人的には、北九州のうどん文化を整理したい。5つ以上のカテゴリーに分類できるはずだ。

まあ、なんとか生きているという話だけの更新。

「土」という言葉について考える。「塾」という言葉シリーズ その2

前回「塾」という文字について書いた。その続きを書いていこうと思う。手紙として出すわけではない。ここからは自分のために探求していく。

 

庭を耕すことにした

園芸の師に自宅の庭を手入れしていただき、大変有難い経験となった。それはまた別途書いていくが、庭の一部である2m四方程度の花壇を手入れするようにアドバイスを受け、翌日から畑の改修に取り組むことにした。20年ほど前に亡くした両親から受け継いだ家で、ほとんど手入れができておらず花壇は10年以上放置したままとなっていた。

掘り返してみると正体不明の根が張り巡らされており、花や作物を植えるどころではなかった。園芸の師からは「始めは面倒だろうが、根を一本一本除いておくように」と言われたこともあり、スコップに加え笊を用意し篩にかけていくことにした。

土を掘り篩にかけていく中で、様々な考えが頭の中を巡った。私はこんなことをしている場合なのだろうか。他にやらねばならないことがあるのではないか。実際やらねばならぬこともあった。

 

土に触れるのは楽しい

とは言え、土に触れるというのは中々に楽しいもので、時間が過ぎるのもあっという間だった。1日、2日、3日と短い時間ずつだが花壇を掘り返した。私が仕事でできない日は家族が手伝ってくれる。

なかなか大変な作業だ。小さな根はたくさんあり、取り切るということはできない。

しかしこれが“土”だ。他に根があれば、作物は育ちづらい。また放置するとすぐ荒地に戻ってしまう。
これが“塾”を表す一部なのかもしれない。

 

野生で強いものだけの社会ではない

自然に生えている植物は力強い。野生の生存競争を勝ち残った強者だ。しかし、野生の獣とは一緒にやっていくのは無理だ。能力の高い猛獣使いなら、ひと時は手懐けることもできるかもしれないが。

しかし、少なくとも畑の役割は狩猟採集民族からの進歩であるはずだ。比喩的な表現にはなるが、たまたま成長した植物を刈り取るのが塾ではない。畑を耕し、土を育て、長く作物が育ち、そのことによって共同体が飯を食べていくことが、塾の目的だ。たった2m四方の畑にてこずる私に、何を育てることができるというのだろうか。

なるほど。自分で考えたことは自らの血肉となる。師からは「問い」を投げかけられただけなのだ。前回の記事内で「師も物足りないと思っただろう」という旨のことを書いたが、師が「物足りない」などと思ったわけではなく、それは私自身がそう感じたことなのだ。師は考えるきっかけを与え、それが学びになるということがわかっているだけなのだ。

私は耕されたのだ。人は、耕されなければならない。

 

※前回記事はこちら

yappyhappy.hatenablog.com

 

「塾」という言葉について考える 

以前、学習塾を運営していました。このブログを書き始めた頃は、まだ実際に教えていました。昨年までは、北九州で「創生塾」という創業者向けの講座も運営していました。しかし、私は「塾」とは何かについて何もわかっていませんでした。

 

師から問われる「塾」の意味

文字の師匠に初めてご挨拶した翌日の朝9時、寝ぼけ眼の私に電話がかかってきた。

師曰く「中川君は塾をやってきたそうだね。では塾とは何かわかるか?」「いえ、わかりません。」
師「塾という文字の中に“土”という文字があるだろう。“土”とは何かね」「時間をください、考えます。」

ご挨拶の御礼も兼ねて手紙で返事を出すことにした。しかし私は字が苦手であり、達筆な師匠に自分の字を見せるのを大変恥ずかしく思った。ただ、悩んでいても字は上手くならない。82歳の方にメールでお送りするのも失礼にあたるだろう。書道を習って、上手くなっていく過程を見せるしかない。今は、今の自分でできる範囲で書くしかない。そう考え直し、便箋と封筒を買い、以下のような文章を書いた。便箋を選んでいる時には心が躍った。

 

書いた返事

先日はありがとうございました。
知らないことばかりで圧倒されるばかりでした。
深い学びをありがとうございます。

後日お電話いただいた「塾」とその「土」について考えました。
調べたところ、「土」とは神様に祈るための盛り土だとありました。土が盛られているということは、誰かが埋められていると想像しました。塾という言葉には「熟」という文字とも似ています。
そう考えますと、塾という言葉に含まれていることは、土が盛られた下で熟成するのは私自身の死体であるように思います。私自身が熟し、肥料となり、より良い土ができ、よい作物が育っていく。その土台となるものと想像します。
しかし、二宮尊徳先生の話をいただいたように、一度耕したところで、一度肥料を混ぜたところで土地が完成するわけではないと考えます。私一人が肥料になったところで小さなものです。今ある土地は、何度も耕し続けていただいた先輩方の努力が地層のように蓄積しています。

私が何をすべきかと言うと、先輩方の残した事柄について、対話を続けることによって学びを深め、最後には自らを土になるものとして扱うことが大切だと思い当たりました。まだまだ浅い考えではありますが、今、私が教えていただいたことをご報告させていただきました。
ぜひ、またお会いして教えていただけますようお願いいたします。それでは失礼いたします。

 

全く理解したとは言えないが、続けていくことは大切だろう

思い出しながらここに書いているので、正確ではないしもっと長く思いの丈を綴ったようにも思うが、概ねこの内容だ。

後日、師のところに別件で伺った際、内容については特に触れられなかった。「良い文章を書いている。良い文字を書いている。」というお褒めの言葉と「まずは“様”という字を書けるようになろう。」というアドバイスをいただいた。内容については、まだまだ物足りないということだろう。

自分が死んだ後、自分が育てた土がどうなるかについて考えるのは、言ってみればゴールの話だ。そのゴールに至るまでの過程はもっと長く、途中の道のりがあるはずだ。この続きは、もう一度考え、書いていくことにしよう。

ひとつの言葉だけでも深い意味を持っている。言葉について考えることは終わりが無い。


学んだことを、改めて書きとめておこう

この1年の間に、70代80代の人たちに教えていただけることが増えた。尊敬できる「道」の途中にいる人たちだ。文字、植木、料理、お花。私から見たら、地元のスーパースターたちだ。

学んだことを自分の中に貯めていても勿体無いので、書きとめていこうかと思う。彼らの「道」をアーカイブするのにも価値があるようにも思える。

私ができることも、きっとそれくらいだろう。私がその「道」を進むことができるわけではない。私が見たものを私が書く。それはオリジナルなものだと信じて。

どれくらい更新できるかはわからないが、改めて文章を書く練習だと捉えよう。文体も少し大人にしてみよう。

追凸されて、いろいろとイライラした話

先日、夜、帰宅している途中で追凸されたんですよ。

 

車は凹んで、腰もちょっと痛い。そんな状況です。車屋さんや病院に行ったり、保険屋さんや警察から電話が来たりと、バタバタしています。新型肺炎の影響もあり、3・4月の講師やファシリテーターなどの仕事は全て延期or中止となっていたので良かったんですが(それはそれで良くはない)、意外に時間取られるんですよね。レギュラーのデスクワーク系仕事が多少あるんですが、デスクワークの際には腰に違和感あって集中できなかったり、原因不明にお腹を壊したりしたのでストレスはあるなと。小さい人間ですからね。

 

考えてみると、交通事故には嫌な思い出が・・・。代表的なのは小2の時に車にはねられて頭蓋骨にヒビが入るという事件。何に腹が立ったかと言うと、母親の「バスの陰から飛び出したあんたも悪いんやろ」という言葉ですよ。そりゃそうだろうけど、今思えば、そんな言い草もないよなと。意識が戻っていきなりそんなん言われたら、小2男子の心に深い傷を与えますよ。これが恨みポイントだとわかったのも30過ぎてからではありますが。

今回も、僕は資産価値が無いような古い車に乗っており、先方は新しいアクアに乗っていたので、事故当初は「なんかすみません」みたいな気持ちになりましたもんね。停車時の追凸なんで、僕は全く悪くないんですけどね。そう思ってしまう性質なんですよ。そりゃ胃も痛くなるわって話です。「何してくれとんじゃゴラァ!」と怒れる人間になりたかった。なれなかったのでこうやって書いているわけですが。

 

いや、でも今回一番イライラしたのは、そこじゃないんです。

 

先方の車を運転していたのは、若い女性の方だったんです。その方は丁寧な姿勢で保険にもしっかり入っていただいていたので、特に思うところはないのですが(むしろ何かすみません的な思いで一杯。)問題は同乗していた人たちですよ。

 

友達とおぼしき同世代の男性がふたり。旧ドリカムスタイルデートや。で、その男性ふたりは、ふたりで後部座席に乗っていました。ん?女性が前で一人で運転して、男性ふたりは後部座席?何やってんのお前ら。男は運転するもんだろう。そんな、古い慣習を押し付けるわけではないが(押し付けている)男がふたりで後ろに乗るのは無しではないだろうか。今から博多まで3人で遊びに行くところだったとのこと。うーん密だな、控えた方がいいんじゃない?とは思ったが、それは僕のセリフではない。

それで、しばらくした後、そのふたりの姿が見えません。聞けば近くの友達の家に、女性用の上着を借りにいったとのこと。寒かったのでその優しさは良いと思うんですけど、ひとりで行けや。事故現場に女性をひとりで残すなや。事故処理に来た警察の方も事情徴収できんで困っとるやろ。いつの間にか車内に戻ってきたふたりだったが、それからも一切車外には出てこず。女性はひとりで事故対応を続ける。いや、それが普通だとは思うよ。でもさ、もう少し心配するとか、心配する素振りを見せるとかあるやん?

これだから今どきの若いモンは!これが草食系男子か!と憤っていたわけです。

 

しかし家に帰って考えてみると、僕が家族で車に乗るとき圧倒的に多いパターンは、息子と僕が後ろで、カミさんが運転する形。女性が前でひとりで運転。男衆が後部座席でふたり。そしてカミさんの車もアクア。完全に同じやん。

 

誠に申し訳ありませんでした。今後は僕がなるべく運転するようにします。

 

なんかこう、何言っても、常に自分に向かってブーメランが飛んでくるよね。「人にイライラするときは常に自分の側に課題がある」って、そんな話。修行が足りない。

 

 

(似たテイストの記事はこちら)

yappyhappy.hatenablog.com

 

(若者にダメ出しする記事はこちら)

yappyhappy.hatenablog.com

 

修行を続けよう

半年ぶりくらいに、はてなブログに戻ってきました。1年に1度くらいしか更新していないのに、それなりに読んでいただいているみたいで、ありがたい限りです。

以前書いた、受験前の記事が読まれているようです。誰かがシェアしてくれたのかな。

yappyhappy.hatenablog.com

更新しないと広告が表示されてしまうので、読んでくれている方のためにも更新しないとですね。 

Twitterばかりやってて、短い言葉に甘えててもダメだなと思いますしね。Twitterはここでやってます。

twitter.com

で、はてなに来たのにはわけがありまして。

最近、答えが簡単には見つからないことを説明しなければならない場が多くなりました。例えば「防災×地域」「スポーツ×SDGs」「アートとは」「北九州における歴史と文化」「行政文章をイラストに起こす」ような。

2月頭までは、講座や案件が詰まっていてバタバタしていたのもあって、思考がフワフワしているというか、地に足がついてない感覚がずっとあったんですよ。

 

昨年の9月にこんな記事を書いてたんですけど、、この後、10月中旬に熱が2週間くらい下がらなくて、入院していたりもしました。今だったらコロナだって言われてただろうな。地元の公民館長をしていたりもして、キャパオーバーでした。本も読めず、映画も観れずでした。厄年だったしですね。

yappyhappy.hatenablog.com

 

2月に入ると、前述のような「考えて説明する」仕事が多くなってきまして。雑にごまかすこともできる気もしますが、自分の中で腑に落ちた自分の言葉で伝えることができなければクオリティが落ちるんですよ。今までは、やっていきながら感覚として会得してきたんですが、もうそういう歳でもないですからね。

とはいえ、毎日、毎日多くの人と会話をする機会があって、自分の中で新しい言葉や考え方が渦巻いているのもわかるんです。

 

そんなことを考えていたら、ふと気づいたんです。

自分の中で答えが出たことじゃなく、わからないものをわからないまま、そのわからないままを書いた言葉を残しておく場所が必要だ、って。その過程を文字に残すことで、思考が整理できればいい。できなくても、その過程は誰かにとっては面白いものになるかもしれないという、淡い期待も込めつつ。

もともと、修行として始めたこのブログです。毎日1,000字を200日続けるのが目的だったので、また修行を再開するには良いのかなと思っています。

刺激を受けたというものある

それから、詩太さんという人の個展に行ったんですよね。なんだか話したり、一緒に仕事をする機会もあって、もう5年くらいずっと絵や詩を見続けています。それで、今日見たらかなり変化をしていたというか、シンプルで優しくなっていた感じがしたんですよね。今までも優しかったんですけど。もっと本当の詩太さんが持っている優しさがでてきたような感じがしたんです。

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感想を伝えると、それでも「まだまだ自分は全然だ」という話をするんですよね。そうだよなって。僕も「まだまだ自分は全然」だなあと。そこからもいろんな話をして、「ちょっとずつ成長するしかないんですよね」という結論で終わったんです。そうだよなって。やっていくしかないんですよね。

僕の強みは、シンプルに説明できることだと思うので、修行を続けるしかないなと。やっぱり書いていくしかないなと。ある程度まとまったらnoteの方に書こうと思いますが、思考の過程はここに書くつもりです。ただの日記ですけどね。

コロナの影響で、関係するイベントなども中止になってきています。こんな時だからこそ、自分の整理に時間を使いたいと考えています。やっていきたいと思います。

 

追伸:noteはこんな感じでたまに書いてます。この記事を見た人から講座を頼まれたのは嬉しかったですね。

note.com

やっぱり何かしら書き続けたほうがいい

もう、一年くらい、はてなブログに来ていませんでした。でも、何かしら書いた方がいいと思い直したので、久しぶりにログイン。何もしないこのブログも結構読まれていたりするんです。ありがとうございます。というわけで雑感を。

 

書く理由 

2・3日前、風邪気味で頭がボーっとしていました。そのとき思ったのが「あ、なんかオーバーフローだな」ってこと。今、地元の公民館長をしたりとか、フリーになって丸3年くらいだったりとか、なかなか忙しい日々を送っています。で、やっと地元のビッグイベントが終わったと思ったら、ありがたいことに、自分が主導する仕事がたくさんあったんですよね。その中で、自分の考え方が大きく変化してきていることに気づきました。感情に囚われなくなってきたというか、ネガティブな言い方をすると感情の揺れにさく余裕がなくなってきたというか。

 

で、どんどん新しいことや仕組みを考えてしまうんだけど、それであふれてしまいそうになって。そんなとき、仲間がツイートしてくれた内容を思いだした。

 

 ああ、そうだなと思って。で、人にはそう言ってきたけど、自分は書いてなかったなと思って。これはいけないなと。

そして、最近話した人たちにも、みんな「書いたほうがいいよ」と思うんですよね。というわけでnoteとやらに書いていくことにしました。こんなのとか。いくつか。

 

「学校には行かなくてもいいけど、学び続けよう」

https://note.mu/yasu_nakagawa/n/n5b1068d4ee79

この辺は最近の記事。 だいぶ文体が違います。

 

今の自分が持っているコンテンツや考えを、どこかに置いていくというのは、成長においてとても大切なことのような気がします。出さないと新たなインプットはできません。

 

このブログを書き始めた理由 

ちなみに、このブログを始めたときのことを、少し書いておきます。ブログ講座に行って「どうせこの参加者の中からも50記事書き続ける奴はいない」って言われて、カチンとしたのが実際のきっかけです。よし、それなら毎日1000字、50記事書こう!と思ったんです。で、なんとなく100記事、150記事と続けることができました。「心理カウンセラー ブログ」で検索すると3番目に出てくるようになりました。

とはいえ、書けたのは日記に過ぎませんでした。読者の方に喜んでもらえたのはほんの数記事だと思います。しかし、その数記事が僕にとってかけがえのないものになったのです。書いたものが多くの人に喜んでもらえるということ。その時の僕には、それはかけがえのないものでした。

 

yappyhappy.hatenablog.com

例えばこの記事。これを読んで「こんなに気持ちをわかってくれる大人がいるんだ」って思って引きこもりを卒業した人がいるらしい。マジか?!って話ですけど。

 

yappyhappy.hatenablog.com

 あと、これ。検索からとてもたくさん読まれました。毎年その季節になると読まれているようです。

 

今は、嬉しさを力にして仕事をしたりはしていなのですが、フリーになる前後の僕を勇気づけてくれたのは、確実にこのとき読んでくれていた名前も知らない誰かです。自分のFacebookでシェアしたりもほとんどしていなかったので、知り合いはほとんど読んでくれていなかったはず。本当にありがたいことでした。

今読んでも、読まれる記事には理由があるんだなと思います。その感覚を手に入れたのも大きかったです。ニーズがなければ必要とされない。読み手の立場にならなければならない。そんなことを肌で実感できました。今、文章上でできているかと言われたらそうでもないのが、恥ずかしいところではありますが。とはいえ、今の僕にはこの文章は書けません。

 

そんなこんなで、何かしら書き続けたほうがいいなと、改めて思います。ちゃんと書いていこう。今の自分にしか語れないことを置いておこう。それを誰かが必要としてくれるかもしれない。喜ばれることを目的とするのではなく、貢献を目的とするのだ。

 

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