「土」という言葉について考える。「塾」という言葉シリーズ その2
前回「塾」という文字について書いた。その続きを書いていこうと思う。手紙として出すわけではない。ここからは自分のために探求していく。
庭を耕すことにした
園芸の師に自宅の庭を手入れしていただき、大変有難い経験となった。それはまた別途書いていくが、庭の一部である2m四方程度の花壇を手入れするようにアドバイスを受け、翌日から畑の改修に取り組むことにした。20年ほど前に亡くした両親から受け継いだ家で、ほとんど手入れができておらず花壇は10年以上放置したままとなっていた。
掘り返してみると正体不明の根が張り巡らされており、花や作物を植えるどころではなかった。園芸の師からは「始めは面倒だろうが、根を一本一本除いておくように」と言われたこともあり、スコップに加え笊を用意し篩にかけていくことにした。
土を掘り篩にかけていく中で、様々な考えが頭の中を巡った。私はこんなことをしている場合なのだろうか。他にやらねばならないことがあるのではないか。実際やらねばならぬこともあった。
土に触れるのは楽しい
とは言え、土に触れるというのは中々に楽しいもので、時間が過ぎるのもあっという間だった。1日、2日、3日と短い時間ずつだが花壇を掘り返した。私が仕事でできない日は家族が手伝ってくれる。
なかなか大変な作業だ。小さな根はたくさんあり、取り切るということはできない。
しかしこれが“土”だ。他に根があれば、作物は育ちづらい。また放置するとすぐ荒地に戻ってしまう。
これが“塾”を表す一部なのかもしれない。
野生で強いものだけの社会ではない
自然に生えている植物は力強い。野生の生存競争を勝ち残った強者だ。しかし、野生の獣とは一緒にやっていくのは無理だ。能力の高い猛獣使いなら、ひと時は手懐けることもできるかもしれないが。
しかし、少なくとも畑の役割は狩猟採集民族からの進歩であるはずだ。比喩的な表現にはなるが、たまたま成長した植物を刈り取るのが塾ではない。畑を耕し、土を育て、長く作物が育ち、そのことによって共同体が飯を食べていくことが、塾の目的だ。たった2m四方の畑にてこずる私に、何を育てることができるというのだろうか。
なるほど。自分で考えたことは自らの血肉となる。師からは「問い」を投げかけられただけなのだ。前回の記事内で「師も物足りないと思っただろう」という旨のことを書いたが、師が「物足りない」などと思ったわけではなく、それは私自身がそう感じたことなのだ。師は考えるきっかけを与え、それが学びになるということがわかっているだけなのだ。
私は耕されたのだ。人は、耕されなければならない。
※前回記事はこちら