ローカルフリーランス日記

北九州地方に住むフリーランス。話を聴く人。イベント作り。創業機運醸成、防災、街づくり、引きこもり支援、博物館、フードイベント、句会、古代史研究会など。昔のことは→ https://works.toiroha.jp/500

自分の棚卸し② 「自分自身の、本当の気持ちに触れる」

前回の記事からの続きです。

自分のストーリを添削無しで綴っています。

 

第2章「自分自身の、本当の気持ちに触れる」

 次に私が直面した課題は「誰のために働いているのか」ということでした。当時までの私は、自分のため会社のため家族のために働いているとはとても言えない状況でした。妊娠中の妻に「生まれてくる子どもと塾の生徒どっちが大丈夫なん?!」と言われ、「塾の生徒達に決まってるやん」と答え、怒らせたこともありました。その時の私は、お客様のために働いていました。そういうと良さそうな印象を持つかもしれませんが、私は誰かのためにならないと自分に価値が無いと考えていました。それは、あたかも、母親に愛されないと生きていけないのと同じで、私は母親のために生きていたじぶんそのものだったのです。

 

f:id:YappyHappy:20160120011935j:plain

 

 私の母親は大変厳しい、母親で週に習い事を6日させられるような毎日を過ごしていました。私の教育方針を巡って父と母が良く喧嘩していたことも思い出です。苦手なことには集中力がほとんど発揮できなかったり、落ち着きが無かったり、運動神経が鈍かったり、すぐ落ち込んだりする私に、彼女もイライラしていたことでしょう。厳しく育てられている中で、塾選びや進学に関しても、彼女の言いなりになっていました。中学時代に塾を突然変えられたときは、泣いて怒りましたが無駄でした。しかし、母を亡くしてから、私に生きる方向を押し付ける人はいませんでした。でも、それまで私は自分自身の生き方を決めたことがほとんどなく、その結果、求められることの嬉しさのままに、顧客のために、塾の生徒達のために生きてきました。

 

 しかし、会社と顧客の間で迷ったとき、常に顧客の立場に立ち続けるような営業スタイルが、会社のためにも自分のためにも、そして顧客のためにも良いはずがありませんでした。そのしわ寄せの中で、同じことを繰り返してきたような気がします。あまり良い状況では無い会社に入り、そこそこの結果を出し、会社の文句を言いながら会社から心を離し、心をごまかしながら働く。そうして心の限界に気づかないまま、体は限界に近づいていました。塾を辞める頃、私は100キロ近い体重があり、血圧も高くなっており、整骨院に通う日々でした。しかし、カウンセリングを続け、母を失った悲しみを受け入れ、消化していく中で、私は徐々に「自分のために生きてもいいのかな?」という気持ちが芽生えてきました。

 

 そして、塾を辞め3年くらいたった頃、私は一冊の本に出会います。その頃、私はFMKITAQさんというところで「ラジオカウンセラー学院」という番組をしており、次の枠の時間で「関門独立共和国」という番組をしていたのが、門司港バナナマンこと秋武政道さんでした。そんな彼が一番初めにオススメしてくれたのが『ストーリー思考(著:神田昌典)』という本でした。仲間とその本を読みながら、本に従って一本の線を引きました。3日後の自分から今の自分に向って曲線を左手で。すると、2日目にとてもポジティブな線が引かれていました。

 

 2日後、知り合いの娘さんが中学3年生で、国語がとても苦手だということで、会って話をしてほしいということでした。作文の書き方を簡単に教え、あとはとりとめのない話を続けたような気がします。でも、彼女にはとてもためになったらしくて、とても喜んでいただけました。私はそれが、とても嬉しかったのです。相手のためにならなければいけない自分だった私は、「なんだ、私は誰かに何かを伝え、それを喜んでくれることが嬉しいんだ」とわかりました。

 

 そのことがわかった私は、自分が以前働いていた塾に行き、週2で講師をさせてもらうことにしました。自分の知っている技術と知識を伝え、喜んでもらうこと。これが自分のやりたいことなんだと、初めて気づいたのです。

 

 1年半くらいの短い間でしたが、ここでは生徒たちに多くを求めることなく「君たちは愛されているんだ」「君たちはどんな条件であっても合格していいんだ」ということを許可し続けました。それは私自身に言った言葉かもしれない、とも思います。

 

(続く)