読書「べつの言葉で」(ジュンパ・ラヒリ) 今生きている場所への安心感は普遍ではない
個人的に、今、生きている小説家の中で、ベスト3を挙げるとすると、
の3人になります。
その、ジュンパ・ラヒリさんの最新作。『べつの言葉で』
(と言っても3ヶ月前くらいに出版されてます)
今回はページ量もそれほど多くなく、内容もエッセイということで、これまでのような読み応えのある短編集や長編ではなく、もっと軽い感じをイメージしていたのですが・・・いやいや、これはズシンと来ました。
ラヒリはもともと、両親がインドからアメリカに移住した家族に育ち、幼少期はベンガル語を、育ってからは英語を使っていました。もちろん、小説も英語で今まで書かれていました。
ただ、今回は、イタリア語で書かれています。(翻訳なんで我々にその辺の細かいニュアンスは伝わっていないとしても。)
イタリア語で書いたの?アメリカの作家さんが?
ですよ。にわかファンからしてみたら。
村上春樹が英語で本を出したといってもあまり驚きはしないですし、カズオ・イシグロが日本語で本を出したといっても、大変嬉しい!話なんですが、そのふたりが、イタリア語で本を出したとしたら、どうします?
正直驚きですよね。そんな感じ。
本書は、ラヒリがイタリア語を学び、イタリアに移住する話。「イタリアに住んでみた」みたいな話ではなく、これは、自分自身の存在にまつわる、深い話。
母国語と祖国をもたない彼女の葛藤。
何かから離れ、自由になろうとしている ことに気づく
そんな物語。
作家としての「大邸宅」を捨て、「仮小屋に住む」ことを決意したラヒリの 、新しい取り組みを応援していきたいと、これからも次の話を待ち望みたいと、そう思うのであります。
ただ、ラヒリが持つ、自分の存在する(もしくは存在可能な)場所に対する憧憬と失望。 存在意義より、我々にとってもっと深い場所にある、存在する場所があったという安心感。おそらく彼女がイタリア語で書いても、本当の意味では安心感との距離感は埋まることが無いのでは。
胸が締め付けられるような、とても寂しいことのような気がするが、それがこの作家の素晴らしさを作る要因のひとつだろうから、HAPPYに生きてほしいと思うけども、これまでのような深い悲しみと、それを見つめる観察眼を活かした小説をもっと読みたいとも思う。ファンとしてはとても複雑。
追伸1:
ラヒリの小説を読もうと思うのなら、僕は長編をおススメします。
以前のブログに書いています。本当に凄い。
読書『低地』(ジュンパ・ラヒリ) 物語に流れる悲しさ。我々の持つ家族への悲しさ。
追伸2:
ラヒリは本当に観察する力が凄い作家さんだと思います。表現のきめ細かさというか。精緻さというか。私自身もカウンセラーとして「観察する」重要性について留意していますが・・・、まだまだ「観察する」力についても足りてないなと日々反省ですね。