ローカルフリーランス日記

北九州地方に住むフリーランス。話を聴く人。イベント作り。創業機運醸成、防災、街づくり、引きこもり支援、博物館、フードイベント、句会、古代史研究会など。昔のことは→ https://works.toiroha.jp/500

自由について~「21世紀の自由論」から「神学大全」を思いだした

どうも、心理カウンセラーのYappyです。今日は長文なので、学力アップを目指される方はスルーして、ぜひ昔の記事をお読みくださいm(__)m

(カテゴリーやレイアウトを調整したので読み易くなったかも)

 

この記事にも書いた

yappyhappy.hatenablog.com

『21世紀の自由論』からヒントをもらって書いています。記事的には続きですが、このままでも大丈夫です。

 

で、自由についてですね。

(今日はあまり改行せずに書きます。文体も常体(だ、である調)でいかせてください。)

 

大学生のころ、私は哲学科というあまりつぶしの効かないところで勉強していた。実際落ちこぼれだった。そんな私が卒論書いたのが、『神学大全』(著:トマス・アクィナス)だった。13世紀頃に書かれたもので、スコラ哲学とか言われているあれだ。

(このへんは神学というカテゴリーで語られることが多いが、神学と哲学はざっくり同じだと、私は理解している。デカルトの「考える葦」という話の大前提は、神が存在すること、だからだ。)

ルネサンス期まで思想の分野では暗黒面が続いたとか言われているが、私はこれがとても好きだった。(近代哲学は、読んでも本質的には理解できていなかった気がする。そもそもそんなに記憶に残っていない。)特に私がお気に入りだったのは、「自由意思」という話。

私の理解での「自由意思」というのは、神を信仰する自由、という話だ。(もちろんその「自由意思」を持つことには、神の恩恵がかかせないという部分はある。)基本的には、人が自らの意思で選び取ることができるのは、信仰する自由、ただそれなのだ。

(加藤先生、間違ってたらすみません。)

今回読んだ、『21世紀の自由論』ではそのような西欧的な「普遍的なもの(自由・平等・博愛)」が目指す哲学を、下記のように書いている。

”人はみな自由だけれど、無節操に自由ではない。いま目の前にあるケーキをたらふく食べ、自由気ままにスマホのゲームに興じることもできるけれども、そういう自由はほんものの自由ではない。それは自由ではなく、欲望に忠実なだけだ。本当の自由というのは、欲望のままに生きるのではなく、理性的に人生を選びとることである。そしてそういう選択ができるためには、人間は普遍へと向かう理性がなければならない。”

もちろん著者は、そのすぐ後の文で、”しかしそのような理性的な人間というのは(中略)現実にいるわけではない”と、評している。わたしにも無理だと思う。

私が心理カウンセラーとして学びをしているなかで、いつも思うことなのだけれども、来談者中心療法という考え方の中で、クライエントの中の力を信じ、カウンセラーは信じぬくことが、必要とされている。その部分は、前述した「自由意思」論と同じところにあると思わざるを得ないのだ。「人間は神の意思に基づいて信仰を得る」=(イコール)「人間は自分の人生を選び取ることができるということを信じることができる」

しかし、本当に、我々人間は普遍的なものを選びとることができるのであろうか。日本人は、と言いたいのかもしれない。我々は日本に生まれて、四季という素晴らしい季節の移り変わりを体験することができる。日本中世からの文筆家たちが著してきたように、「無くなっていく失われていくからこその美意識」というものを、長い世代を通じて、慈しんできたはずだ。そもそも、日本人にとって普遍的なものなど無いのだと思う。西欧においてはもちろん神があり、その下での、自由・平等・博愛という「普遍的なもの」が在り続けたのだが、日本には神そのものの概念が違う。

そういった意味で、心理カウンセリングのあり方も、それぞれの文化圏の発達という概念を中心に据えなければ、本質的な効果はでないのではないかと考える。そして、心理カウンセリングという現場だけでなく、政治・教育、といった分野でも同様だ。

どういうことかというと、心理カウンセリングの到着点として「自由であること」を受け入れるということがあると思う。自分は愛されているから、自分には価値があるから、自分らしく、自由に生きていいのだ。という到着点なのだ。その「自由」という意味が、「西欧」と「日本」で違うと思うのだ。

我々は、人間として、「怖さ」という根源の感情がある。それは当然のことだ。だからこそ、自分を守ることができる。もしわれわれに「怖さ」という感情がなければ、高い木にすぐ登りたがり落ちてしまうかもしれないし、一対一では勝てない猛獣に戦いをしかけるかもしれない。それは生命の危険であり、根源の恐怖だ。

(だから子育て中の親は、根源の存在を否定するようなことは子どもに言わないようにしたほうが良いと思う。)

日本人には、前述したように「喪失の美意識」とでも言いたいようなものを、DNA的に持っている。その中での「怖さ」というものは、生命の危機への「怖さ」だけでは説明できないのではないか。自らの生命というものに対しても、ある種の「あきらめ」という名の美意識を持っているようにさえ感じる。

では、日本人が突破すべき「怖さ」というのは、何か。どの「怖さ」を突破すると、我々は楽に生きていけるのだろうか。

それは「コミュニティ」であると考える。

『21世紀の自由論』の著者は、本の最後を、”私たちは自由はないけれども、宿命的にいろどられた漂泊的でつながりのある未来という入り口に、いま立っている”と締めくくっている。

私は、これに完全に同意するものだ。何かの目的のだめだけでなく、漂泊すること。でも、そこそこのコミュニティに受け入れられることができる。我々は日本人だからという理由だけで。日本だけでなく、もっと小さな、藩とか、県とかそういった小さな単位だとなおさらだったのではないだろうか。

これからは、ネット社会という、日本という枠に縛られない、もっと自由で能動的なコミュニティがそこそこの場にできるはずだ。その場は、趣味や、理念、想い、など様々な形の繋がりになると思う。そして、我々は、そこそこの場に、自由に出入りし、役割を果たし、また別の場に自由に出入りしていく。そういった人生を送ることができるはずだ。

心理カウンセラーとして必要なこととして考えるのは、「自分が愛されるものであること」に気づくことだけでなく、「他者の多様性を受け入れ、必要とすること」。知らない人は怖いかもしれない。実際に怖い事例には事欠かない。それでも、尚、怖さを受け入れ、その怖さを持ちつつも、「他者の多様性を受け入れること」を自ら選ぶこと、が心理カウンセリング、さらには人生の目的だと思わずにはいられない。

そして私自身も、漂泊して、ふと、死ぬ日を迎えたい。寅さんや、房州さんのように。また、松尾芭蕉や、種田山頭火などのように。それは親の育て方がどうとか、メンタルがどうとか、そういう話でもないはずだ。ただ、流されるままに生き、愛し愛されて生きていくのだ。そして、新しいものが生まれ、変わりゆき、失われていくものを慈しみながら生きていく。それが私の望みだし、そのことに気づいたことによって、日本人としての自己認識をより深めることができた気がする。

もし、死ぬ瞬間が自分ひとりだったとしても、自分はこの世界において愛されていたのだと実感できれば、それがベストではあるし、願わくばもう少し我が子が大きくなるまで「君には価値があるし、君のことを愛しているんだよ」というメッセージを、彼の心に入れてあげたいとは思うのだが。

 

長くなってしまいましたが・・・、

我々は、

もっと自由に、いろんな場で、いろんな自分を、認めていいはずです。

 長くなってしまったけど、そう思っています。それが、いじめをなくしたり、そんあことに繋がっていけると信じています。マジです。

神学大全I (中公クラシックス)

神学大全I (中公クラシックス)